弁護士 小川義龍 の言いたい放題

 30年選手の弁護士小川義龍(東京弁護士会所属)が、歯に衣着せず話します。

弁護士を志す諸君へ

 久しぶりの投稿だ。フェイスブックにはほぼ毎日、ツイッターにも細々と投稿しているんだけれども、まとまった文章でブログを書くとなると、どうも慎重になってしまう。その結果、ブログで話題にしたいなあと思いつつ、より手軽なフェイスブックなどに書き散らすだけで終わってしまう。

 今回は、弁護士を志す諸君へというタイトルで、実は自戒も込めて後輩諸君にちょっとばかり弁護士の気構えを講釈たれてみようと思う。今日、フェイスブックで話題になった内容だ。

敗訴知らずの弁護士は優秀なのか?

 「裁判で負けたことがない」と喧伝する弁護士は、素人目にはなんだか凄そうに見える。実際、ドラマや映画などでは、負け知らずのヒーロー弁護士(または敵役弁護士)がしばしば登場する。裁判をゲーム的に捉えると、負け知らずというのは弁護士にとって優れた要素に見える。

 しかし本当にそうだろうか。

裁判には必ず勝ち負けがある

 裁判は、最後には判決が言い渡されて、一方が勝ち、他方が負ける。普通、引き分けはない。もちろん、判決までたどり着く前に和解して双方痛み分けにすることもあるが、それにしても、どちらかが優勢に和解するのが殆どだ。まったく引き分けの対等和解は多くない。

 これが裁判というものだから、訴訟事件に関わる弁護士は、勝ち負けの経験をどんどん積んでゆくことになる。

勝ったことしかない弁護士は存在するのか?

 多くはなさそうだが、存在しうる。そしてこの達成はさほど難しそうではない。というのも、勝つ事件だけ選り分けて依頼を受ければいいからだ。

 勝つ事件だけ選り分けられるのかというと、ある程度それはできる。例えば、金融機関の無難な債権回収だけ引き受けていたら、これはだいたい常勝できる。お金を貸した事実・相手が借りて返さない事実、これを証明できれば勝てるわけだから、困難ではない。したがって、金融機関の無難な債権回収事件だけ受けている弁護士であれば、常勝弁護士だ。

 もう少し身近な例でいえば、消費者金融などからの過払い金回収専門弁護士。派手な宣伝広告を展開している。この人たち、たぶん常勝だろうと思う。金融機関の平凡な債権回収事件と同じことで、利息制限法の上限金利を超えていることを主張するだけでいい。かつて、貸金業規制法43条のみなし利息条項が存在していたころは、相手によってはなかなか過払い金回収も骨が折れて、まさに腕の立つ弁護士の見せ所があったが、今は、腕の立たない弁護士でも勝つだけなら勝てるフィールドに堕してしまった(それでも、その勝ちの中身には、腕の立つ弁護士の見せ所がまだある。)。

 だから、勝てそうな事件だけ選り分けて引き受けていれば、常勝弁護士のタイトルは我が物にできる。

弁護士の腕がよいと、負ける事件も勝てるのか?

 一方、事件を選り分けなくとも、敏腕弁護士だからこそ常勝ということはありうるのだろうか。つまり、普通の弁護士が受任したら負ける事件を、敏腕弁護士が受任すると必ず勝てるのかということだ。仮にそういう敏腕弁護士がいれば、勝てそうな事件を選り分けることなく、全ての事件を勝ちに導くことができるだろう。

 しかし残念ながら、それはドラマの世界だ。どんな事件にも多かれ少なかれ「筋(すじ)」というものがある。我々法曹が、仲間内の会話で「この事件は筋が悪い」と言ったりするが、これはつまり、負けそうな予感がする事件とか、引き受けるべきではない事件とか、そのような意味を持つ。筋が悪い事件は、頑張っても勝てないことが多い。なぜなら、法律上の主張を構成することが困難だったり、こちらの言い分は実にもっともであっても肝心の証拠が無かったり、そういう事件の場合には、我々弁護士としては腕の見せ所がない。さしずめ、調理する魚がないのに、美味い寿司を握ってくれと注文された板前と同じことだ。魚がなければどんな大将でも寿司は握れない。

 だから、いかなる事件にも常勝の敏腕弁護士というものは存在しないのだ。

常勝を強調するのは営業トーク

 このように訴訟事件は50%の確率で片方が負けるわけで、この負けを腕だけで無理矢理勝ちに導くことが困難である以上、常勝弁護士とは、負けそうな事件を引き受けていない弁護士というだけのことだ。

 そして、わざわざ自分は常勝弁護士だと喧伝するのは、敏腕であるかのように見せるための営業トークということになる。世間的には凄いと思われてしまうが、裏を返せば事件を選り好みする商売人弁護士ということになりそうなので、あまりいい感じはしない。裁判はゲームではないのだ。

とはいえ、腕のいい弁護士は僅差の事件に勝つ

 常勝は無理でも、五分五分の事案、つまりどちらが勝っても負けてもおかしくないような事件。これこそ優れた弁護士の腕の見せ所かもしれない。

 裁判は、簡単にいえば裁判官に対するプレゼンテーションだから、プレゼンテーション能力に長けた弁護士は勝ちを導きやすい。だから、勝率10割は誤導的と言うべきだが、事件を選り好みせず勝率が6割超えのような、そういう弁護士がいるとすれば、それこそ本当の敏腕弁護士だろう。

 ただ、訴訟は常に判決までたどりついて勝敗が出るわけではない。本当の敏腕弁護士は延々と争って判決で勝敗を付ける前に和解でさらっと実質的な勝ちを獲得してゆく(これを勝訴的和解という)ことも多いから、勝率など計算しようもない。和解に勝ち負けはつけにくいからだ。

 だから、やっぱり、声高に勝率を云々する弁護士は、私には、なんとなく胡散臭い感じがする。

実は、負ける側こそ弁護士の腕の見せ所(大切なこと)

 さて、ここから弁護士を志す諸君に、大切なことを言う。今日のブログで私が一番伝えたいことだ。ここまで書いたことは全て前置きだ。

 訴訟事件には必ず勝ち負けがあり、常勝の弁護士はいないと言った。裁判に勝った方が満足するのは当たり前で、これはアホでもできる。

 一方、負けた本人をどう納得させるか。これは腕のよい弁護士でなければできない。腕の悪い弁護士は、負けさせっぱなしだから、結局、負けた本人が負のオーラを社会にまき散らすだけの結果を導く。自分が負けたのは、裁判官が悪い、法制度が悪い、ひいては社会そのものが悪いと感じてしまうことになる。こうなると、結局、社会全体として「悪しきオーラ」の総量が減らない。それでは幸福な社会は実現できない。

 これだけ弁護士が頑張ってくれたのに、結果として負けちゃった、悔しいけれども、ちょっとなんだか裁判官の当たりが悪かった気もするけど、でもやっぱり、これで仕方がない。自分も弁護士も頑張ったから、もうこの件を考えるのはこれでオシマイ。さて、明日は何か楽しいことが待っているかなと、裁判を経てそういう前向きな明日を迎えてくれると、それは弁護士としては、負けてしまって残念ながらも、やり甲斐があったということになる。そしてその時点で、社会に存在していた負のオーラがちょっとだけ消滅する。そしてちょっとだけ社会の幸福度が上がる。はずだ。

 だから、もっぱら弁護士が悪くて負けたと言われないように、研鑽を積むべきなのだ。それこそが敏腕弁護士というもの。

社会全体の「不満感」を減らすことこそ社会正義の実現

 事件そのものに勝てばいいというのでは、ただの商売人弁護士だ。せいぜい事件を選り好みして常勝を喧伝すればいい。いや、してもらいたくない。

 むしろ、社会全体の幸福まで考えたとき、負け筋の事件に対して、依頼者が納得のいく負けさせ方を心得て、それを積極的に引き受ける弁護士こそ社会正義の担い手ではないかと思う。この事件は負け筋だけれども、俺こそが、これを引き受けて社会におかしな遺恨が残るのを阻止するぞと、そういう意気込み。

 そのためには、負け筋の事件だからといって、最初からあきらめてしまうのではなく、手抜きをしたりせず、負け筋だからこそ、依頼者と一緒になって最大限頑張るのだ。それが依頼者と自分だけの孤独な闘いであったとしても、最大限闘った上で負けたら、社会に対する不満の総量は、きっと減るに違いない。それこそが弁護士の生きがい。

 どうだろう、弁護士を志す諸君。

 

 

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