証拠である。
証拠が全てであると言ってもよい。
ここで裁判のしくみを、ちょっとお話ししよう。
裁判は、当事者が
(1)主張と
(2)立証を
交互に闘わせることによって進んでゆく。主張と立証はワンセットだ。そしてこの主張と立証を、レフェリー役の裁判官が黙ってじっと見ていて、最後にどちらかに軍配を上げる。これが裁判の基本的なしくみだ。
「主張」とは、当事者の言い分のこと
当事者の言い分だから、基本的にはその当事者が思ったまま・経験したままを語るのが「主張」だ。おそらく相手の当事者に言わせると「相手の主張は嘘八百」となる。しかしこちらの当事者に言わせれば「これぞ真実」だ。当事者の争いは裁判のステージまで進展してきてしまっているわけだから、お互いの主張を否定しあうことになるのは珍しくない。
そして、この当事者のナマの言い分を、法律的に構成するのが裁判上の主張だ。当事者が思ったまま・経験したままの事実を、法律の要件にあてはめて、法律的に認められる正当な権利として主張するわけだ。裁判所は、よろず紛争解決機関ではなく、あくまでも法律的な紛争について解決する機関に過ぎないから、当事者の言い分は法律的に認められる権利でなければならない。法律の要件に当てはめられない主張は、裁判にすることができないわけだ。
このように、裁判上の主張は、「一方当事者の思ったことや経験した事実を、法的な権利として構成したもの」ということができる。
「立証」とは、主張を支える証拠を出すこと
ここで裁判の仕組の中で、最も重要なことを言う。
およそ裁判は「証拠裁判主義」といって、当事者が証拠を提出しなければ絶対に勝つことはできない。当事者にしてみれば、自分が経験したことなんだから、証拠なんてどうでもいいと考えがちだ。このため、裁判官に切々と訴える主張に凝りがちだ。
しかし、裁判は、裁判官という第三者に、どちらの主張が正しいのか、その一方を選択させる作業だ。当事者がいかに真に迫ってもっともらしい主張をしたとしても、それが並立していたら、第三者の裁判官としてはどちらが真実なのかはわからない。なんとなくこっちのほうが真に迫ってもっともらしいから採用!などという浪花節な裁判は許されない。ヤマ勘で裁判されたらたまったものではない。このため、専ら証拠に基づいてどちらの主張が真実らしいのかを判断すべし、という仕組になっているわけだ。これが証拠裁判主義。
このように裁判は、自分の主張の正しさについて、見知らぬ他人(=裁判官)を説得する作業だから、それを真実だと思ってもらうための証拠が最も大事だと言うことになる。
演説したい気持ちはよくわかる
素朴な感覚では、証拠という過去の抜け殻を出すよりも、自分の話を聴いて欲しいと思うだろう。だから証拠よりも主張の方に熱が入りがちだ。しかし極論すれば、主張は必要最小限でいいのだ。裁判は、およそ当事者の言いたいことを全て判断するわけではなく、法的な権利があるかないかを判断する作業だから、裁判官は必要最小限の部分しか見ないし考えない。
例えばこういうことだ。
<AさんがBさんに対して100万円の貸金を請求する裁判を起こした>
としよう。
Aさんとしては、Bがいかにだらしなくてお金を返さないか、いかに不誠実なヤツであるか、そして自分がいかに怒っているか、もしかしたらBは詐欺師かもしれない、断罪して欲しい、こういうことを裁判官に切々と訴えたいであろう。だから訴状にこのような自分の思いや事実関係を詳細に記載して裁判に提出したくなる。
このとき、裁判官は何を見ているかというと、実は「AがBに対して100万円の貸金請求権があるかどうか」という点だけだ。Bがだらしなくて不誠実であるかどうかとか、詐欺師であるとか、今回Aが怒っているかどうかとか、こういう事実はAがBに対して100万円の貸金請求があるかどうかの判断には関わらない。Aが怒ろうと怒るまいと100万円の貸金請求権の存否に影響はない。だから法的判断に影響しない部分は、裁判官は時間をかけて検討しない。参考程度に読みはするが、「ふーん」で終わってしまう。これが裁判だ。したがって、Aがこの裁判に勝ったとしても、判決の中で、Bの悪性やAの怒りが認定されることはない。実にクールなものだ。
このように、主張に凝ったとしても、裁判官は必要最低限度でしか見ないし考えないので、そこに時間や労力をかけるのは無駄だ。むしろその時間や労力は、裁判官が注目する法的主張の部分を支える証拠を、これでもか、これでもかと十分提出するところに注ぐべきだ。なぜなら、証拠がなければ、いかにもっともらしい主張あっても裁判官は採用してくれないからだ。これが証拠裁判主義だ。
だから裁判に勝つためには、証拠を出さなければ絶対にだめなのだ。これが証拠裁判主義だ。
じゃあ、裁判に勝つための証拠とは何だ?
契約書か。借用書か。目撃者か。
そんなものがあるくらいだったら、裁判どころか、そもそも争いにはなっていないと言う人もいるだろう。証拠がないから、裁判になってるんだ、と。確かに、借用書など端的に事実を物語る客観的証拠があるに越したことはない。しかし裁判で言う証拠とは、客観的で有力な証拠に限るわけではないのだ。一見、証拠がなさそうな事案でも、十分、裁判の勝機はある。
この証拠の探し方、出し方、見せ方こそ、まさに弁護士の腕なわけだが、これは次回、お話しすることにしよう。
(つづく)